覚えているつもりもないことを、急に思い出すことがある。たとえば、音楽を聞いていて、その旋律のあるところへきたとき、何かの映像が、急に自分の中で立ち上がるとき。それがいつの何なのか、どうしてそれを思い出すのか、全くわからないまま、その映像は鮮やかさを増していく。やがてそれは自分の中に大きく拡がって、はっきりした1つの場面へと発展する。そしてストーリーを持って展開していくのだ。だがそれが何なのかは、全くわからないままに。
 何かを思い出そうとして、その何かが何なのか、全く心あたりがないとはどういうことだろう。何かを思い出そうとする時とは、「今朝ガスの元栓締めたかしら」などといった場面設定があるのが普通である。しかしこの場合そういうものは何もない。だが思い出すべき何かが自分の中にあるのは確信している。確かに思い出しかけた記憶の断片があるのだから。自分しか知らない自分の中に、自分の知らない何かが起きたのだ、自分の中のことだからと言って、なにもかもが分かっているとは限らないのかも知れない。
 そんな心の動揺とは関係なく、ストーリーは進んでいく。その行方は音楽のそれとは全く別の方向へ向かっている。まるで通過列車の擦れ違うホームに立ちつくしているような感じだ。両者はとどまることなくそれぞれの速さで擦れ違っていく。車両番号を確かめることもできない。この時味わう不思議な感覚は、注目すべきものである。それは再生されている記憶の持つ感情とは別のものであり、謎を解く努力の楽しさとは別のものだ。
 列車のどちらかが行ってしまうと、そのホームも不思議な感覚も消えてしまう。音の旋律のストーリーが止まると、その場面事態も止まり、スクリーンも闇になる。謎事体が消滅し、記憶をたどることすら許されない。旋律のストーリーは、自分の中の何かに作用しているらしい。また、記憶がすべて再生され尽くし、最後の車両が行ってしまうと、やはりホームは消滅する。後には言い様のない淋しさだけが取り残される。なぜその場面が再生されたのか原因がつきとめられ、謎がなぞとしていられなくなったからに違いない。

 自分の中の、自分の知らない何か。自分の中の未知なものに向かっていると言うこと。

 世界は、どこからはじまり、そしてどこでおわるのだろうか。
 わたしたちは、常に外側を”感じて”いるだけである。たった今見ている手の皮膚も、”感じられた”ものだけがわたしたちの中へ届き、積まれている。もちろん、わたしたちはこの瞬間にも、世界を”感じて”いる。そしてそれらは次々に積み重ねられ、かたちづくられている。そのかたちづくられたものが、わたしたちにとっての世界なのである。
 すると、世界はどこからが世界でどこからが”わたし”なのだろうか。世界は”わたし”が”感じ”たものだけでできている。”わたし”は身体の「外側」を着た内部であり、そして世界は’わたし’の”感じた”内部なのだ。


 それはすべてを含み、何者でもない。そしてそれは常に外側であり、同時に最も内的なものなのだ。
 それはすべての色を持ち、何色でもない色である。それは具体的な形を持ち、具体性のないものである。

わたしの(感じられた)世界が、あなたの世界としてあなたの内部に形づくられること。
わたしたみつめる内部へのまなざしを、あなたの内部として内側へむけること。
内的な視線をあなたの世界としてかたちづくること。

さいとう うらら